日本人なら誰でも知っている『忠臣蔵』。
よほど私たちの心の琴線に触れるテーマなのか、今でも12月になると必ずTV等で取り上げられたりドラマ化されたりします。
Q:赤穂浪士は、なぜ12月15日に吉良邸に討ち入ったのでしょうか。
A:大石蔵之助がその日に決めたから…というのは違いますよ(笑)正しくは「その日の夜は外が明るいから」です。深夜、敵味方入り乱れて斬り合う討ち入りの夜、お互いの顔も見えない闇夜では困ります。「山」「川」という合図を決めたのも暗い中で敵と味方をハッキリ区別するためでした。
それでは、もうひとつ質問を
Q:織田信長が明智光秀に殺された「本能寺の変」は天正10年6月1日夜半過ぎ。この夜、外は明るかったですか?暗かったですか?
A:完全な闇夜でした。
なぜこんなことが分かるかというと、当時の暦は旧暦だったからです。
旧暦は月の満ち欠けの周期を一ヶ月と数え、月の1日は新月で闇夜、それから緩やかに満ちて月の半ば頃の15日には満月で、最も月明かりの明るい夜になります。
近代以前、まだ電気も無い時代、照明は行燈やロウソク、灯明のわずかな明かりしかありませんでした。今の私たちには想像もつかない程、夜は暗かったでしょう。
行燈の明るさは、60ワット電球の約100分の1くらいで、おそらくは新聞も読めない程の明るさしかありません。ロウソクは高価でしたから庶民が日常に使うことはできませんでした。
ましてや、戸外の暗さは想像もつかないでしょう。提灯の明かるさは、せいぜい足元を照らす程度でしかありません。月明かりが一番頼りになる明かりでしたから、月齢は常に重大な関心事でした。月の満ち欠けへの関心は現代人より遥かに深いものがあったはずです。